Days in my life

カテゴリー: 日々つれづれ (page 4 of 5)

ウルトラマンが守るもの

ウルトラマンが守るもの
ピンボケ写真。
マラッカからクアラルンプールへの帰り道、
ウルトラマンの大きな立て看板を見かけたので、慌ててシャッターを切りました。

ウルトラマンに夢中の5歳の甥っ子に
「マレーシアにもウルトラマンいたよ!」
とLINEをしたら、ふーん…とつれない返事。

「だって、ウルトラマンは地球を守ってるんやから当たり前やん」だって。

ウルトラマンの種類を覚えられない伯母は
最近すっかり見下されています。

そんな彼にも、今日市役所から小学校への入学通知書が届いたそう。
4月から1年生か。

9年間、ありがとう

10月最後の日。
月が改まると税金の払い戻し金額も変わってきてしまうので、
思い悩んだ末、これまでの愛車を廃車にする手続きをしてもらいました。

まだ次に買う車も決めれていないんだけれども、
いつまでもズルズル思い悩んでいてもキリがないし
いろんな意味でふんぎりをつけるために。

とはいえ、じわじわとくる喪失感。

ちょうど車を買った頃、
高速道路1000円乗り放題をしている時期だったので、
あちこちいろんなところに行って、たくさんの思い出がある車です。

でもまあ、
寂しいけれど、次のことを前向いて考えないとね。

代車のことを含め、
親身になって相談に乗ってくれる車屋さんの存在がとってもありがたいです。

しかし、愛車の写真をまともに撮ってないことに愕然とします。
なんとか全体の姿が写ってるのもこの1枚くらい。
とはいえ、小さくしか写ってないので風景だけモノクロ加工。
滋賀のソラノネ食堂にて。
http://www.pecograph.com/note/?p=2995

琵琶湖一周の旅も、この車と一緒で楽しかったなぁ。

大好きだったよ、9年間どうもありがとう。

愛車、どうする?

ちょっと前、自損事故をしてしまって
愛車を傷めてしまいました。
写真は、お借りしている代車から眺めた愛車。

折しも車検の時期で、
ちょうどその日の夕方、
いつもお世話になっている車屋さんに車検の依頼をしようと思っていた頃。

ぼんやり考え事をしていて
左側に縁石があることに気づかずアクセルを踏んでしまって
バンパーとボディに大きなお釜を掘ってしまいました…涙。

修理代と車検代、
そしてちょうど交換の時期だったタイヤを見積もってもらうと
軽く40万円を超す値段。

乗っていたマツダのアクセラは本当にデザインも性能も気に入っていて
大好きな車であることは間違いないけれど
9年目、そして走行距離も11万キロという状況を考えると
ここにこの費用を費やすのが賢明なのか、
それとも新車を購入する費用に充てたほうがいいのか、
迷うところです。

気になる車種があるメーカーで試乗をさせてもらって
見積もりが出て、ここから現実的な話。

最近の車って性能もよくなってるけど
値段もびっくりするくらい高くて腰を抜かします。
お財布としっかり相談せねば。

とはいえ、
私の生涯で車を購入するのは
きっとあと2回か多くて3回。

そのうち、気に入った車を購入して
あちこち走るのは「今回が最後かな」と思うこともしばし。

今より年老いた次回に購入する車は軽四で十分だし、
人生の最後は公共の交通機関か自転車か
もしくはたまにレンタカー借りるくらいがいいやと思っているので。

うーーーん。
しかし、最近の車は高い!
高すぎる!!
若者が車に乗らないのは「買わない」じゃなくて「買えない」からだって思いました。
若者じゃないけど、買うの大変だもん…。

さてさて、どうしよっかな。

そして、愛車の写真を全く撮ってなかったことに
今更ながら気づく。

写真は、
父が亡くなる半年前に
幼い頃に家族で住んでいた宇和島を家族で旅した時に撮ったもの。
愛車も両親も豆粒程度にしか写ってません…涙。

私の友人の皆さん、
もし私の車が写ってる写真があったら、ください!

1年

明日は父の命日、そして一周忌です。
お墓の掃除に行った母によると、
霊苑にはすでに満開の桜もあったとのこと。

いろんなことを思い出すけど、
じっくり感傷に浸る時間がないまま月日が流れていきます。
でもそれはしあわせなことなんだろうな、とも思います。

明日はお天気も良さそうで、よかった

ホスピスの窓から

1年前の今頃は
父が入院したホスピスの窓から夕暮れの風景を、毎日眺めていました。

「一生を24時間に換算すると、
 父は今何時何分頃になるんだろう」

なんてことを、よく思ってました。

桜が開花しはじめる頃、一周忌を迎えます。

昨年は桜の開花が楽しみである一方
それは父の命のリミットが刻一刻と近づいていることを意味することでもあったので
複雑な気分で過ごしていたけれども
今年は、ただただ桜が咲くことが待ち遠しい気分です。

ふだんあまり読み返すことのない自分のブログの1年前の投稿を見てみると
看病の合間によく冷静にブログを書いてたなぁと思います。
しかも他愛もないことばかり 笑。
http://www.pecograph.com/note/?m=201603

ホスピスで父と家族と過ごした12日間は
本当に穏やかで、かけがえのない濃い時間でした。

いろんなことがあったけれど
今こうして振り返ると、1年があっという間に感じます。
“父がいない娘”として、初めて4つの季節を経験したことになるんだな。

書き留めておきたいと思うことも、また書きたい気分になったらそのうちに。

畑仕事

晴れの土曜日の朝、父が丹精込めて耕していた畑の様子を見に行った。
うーむ…
年が明けてからほとんど手入れ出来てなかったので、見事なワイルドっぷり!

結構な広さがあるので、まずは2畝ほど整えて新しく何かを植えれるよう下準備することに。
ふだん野良仕事を全くしないので、雑草を抜くだけでもなかなかの重労働。
小さな助っ人もせっせとお手伝い。
おじいちゃん仕込みのスコップを持つ姿も、なかなかサマになってる。

「若い頃、じーちゃんに教えてもらってん!」と力説する4歳児。
‘若い頃’って…笑。


ちょうど空豆が収穫の時期を迎えていた。
その名のごとく、さやが空を向いてスクスクと育っていた。
大好物だけど買うと結構な値段がするので、これはうれしい。
豊作にほくほく。


土を掘り起こすといろんな虫たちが顔を出してきた。
どこかから種が飛んできて根づいたナガミヒナゲシもたくさん花が咲いてて賑やか。

ちょっとずつ耕してベランダのプランターではなかなか育たないハーブをいろいろ植えてみようかなと。
あんまり手をかけずおいしいものが収穫できる畑にしたいなあと、まずはいろいろ情報収集中。
ゴールデンウィーク中に何か苗を植えたり、種蒔きできるといいな。

キラキラ青春オーラ

週末のこと。
友達の娘が希望していた高校に合格したので
少し遅くなってしまったけど合格&入学祝いをお届けに。

「志望校に受かったらプレゼントするよ!」と約束していたもの。
中身は内緒。

部活が終わるお昼過ぎには戻ってくるとのことだったけれども、
待てども帰ってこない。

なので友達が用意してくれたお昼ごはんで、
2人だけでエンドレスなおしゃべりランチタイム。
さんざんしゃべり尽くしてそろそろおいとましようとしてた頃に、主役が帰宅。
数ヶ月前に会った時よりも背丈も伸びて、すっかりお姉さんに。
はじまったばかりの高校生活が楽しそうで何より!
キラキラの青春オーラが眩しかった。

帰宅する頃にLINEで「ありがとう!」とメッセージが届いた。
そっか、自分のスマホ買ってもらったんだね。
小さい頃から知ってるので、こういうやり取りをするのがなんか不思議な感じ。

「困ったことがあったらいつでも連絡してきてよ!」

と、まるで親戚のおばちゃん気取り。
でも、本当にそんな気持ち。

あと数年したら一緒にお酒も飲めるね。
それも今から楽しみ。

主治医の先生

ずっと父がお世話になった主治医の先生のところに、母と一緒にあいさつに伺った。

父はこの先生のことが大好きで
「先生に命を預けてるから」
と、全幅の信頼を寄せていた。

できることはできる、できないことはできないと、
ズバッとはっきり物事を伝えるのが、父の性格に合ってたんだと思う。
また、むやみやたらと抗がん剤治療を勧めないところも、私も好ましいと思ってた。

家族がガンと診断されたら、おそらく多くの人はまずネットで情報を検索したり、本屋で参考になりそうな本を探したりすると思う。
そして玉石混合で溢れかえる情報に、かえって混乱してしまう人も多いのではないかと思う。
私もそうだったように。

そういった点から、患者自らが主治医のことを心から信頼して積極的に治療に臨めるのは、ある意味とても幸せなことなのではないかと思う。

主治医の先生はとても忙しい診察の合間をぬって、話をする時間をつくってくださった。
これまで気丈に振舞っていた母も、先生の前では涙ぐむ姿を見て、
ずっと父と二人三脚で病と向き合ってきたんだということを改めて強く感じた。
そしてようやく涙を見せることができた母を見て、ちょっとホッとした。

「お父さんから学ばせてもらったことがたくさんあります」と、主治医の先生。
先生がこれまで治療してきた患者の中でもベスト3に入るほどの我慢強さだったそう。
そして、どんな時も前向きだったと。
そうなんだ。

この4年間ガンという病を通して、父のことを1人の人間として深く知るきっかけを与えてもらったように、この頃よく思うのです。

父の旅立ち

長らく病と闘ってきた父が、4月2日に旅立ちました。

「沈黙の臓器」と言われる膵臓に癌が見つかったのが4年4ヶ月前、
2011年の年の瀬も押し迫る頃でした。
ちょうどその時、父にとって初孫となる甥っ子が妹のお腹にいました。

「孫ができるなら長生きせな!」と、
もともと体がとても丈夫な父は ‘健康という太鼓判を押してもらう’くらいの気軽な気持ちで近所のかかりつけ医で検診を受けたところ、膵臓に影がみつかり、県立中央病院で精密検査、そして直ちに手術となりました。
この時点で「ステージⅣ-a」という、いわゆる末期ガンの状態でした。
膵臓癌が「ガンの王様」と呼ばれるほど予後の悪いガンであるということも、私はこの時初めて知りました。

けれども無事手術も成功し、幸い抗がん剤の副作用も少なく、その後も毎朝散歩にでかけたり、畑仕事をしたり、仲良くしていただいている同級生の仲間たちと遊びに出かけたりと、マイペースに父らしく日々を過ごしていました。
病気ということを知らなければ、どこからどう見ても健康そのものでした。

そして手術から1年半後に肝臓と肺に転移しているのがみつかりました。
その時はさすがにショックを受けていたようだったけれども、信頼できる先生に恵まれ、前向きに弱音のひとつも吐くことなく病と向き合っていました。
この文を書いていて気付いたけど、そう、まさに「向き合う」と言った言葉がぴったり。

病に対してがむしゃらに立ち向かうというより、自分の体に起こったことを受け止め、その時できることを自分なりに考え行動に移していたように思います。

「絶対に病人扱いしないで欲しい。病気と病人は違う」と、
父は家族には厳しいくらいに“いつも通りの生活をすること”をずっと強く望んでいました。
また父自らも 病を抱えながらも自分らしくいつも通りの生活を楽しんでいたように思います。
主治医から許可が出たらすぐさまお酒も飲むし、友人たちとせっせと遊びに出かけるし 笑。

だけど、今年に入ってからだんだんと体力がなくなり、家で過ごすことが多くなりました。
抗がん剤などの積極的な癌治療を終え、訪問医療の医師や看護師にお世話になり自宅で療養していたけれども、いよいよ痛みがひどくなってきてホスピス専門病院へ。
最期の12日間は緩和治療のプロフェッショナルな医療チームに父も家族も心強く支えられ、濃密な父との時間を過ごすことができました。
そして、あたたかな春の光が差し込む部屋で家族全員に見守られながら穏やかに息を引き取りました。
身内ながらも、本当によくがんばったと尊敬します。
父らしく最後まで自分の「生」を生ききったのではないかと思います。

自分の葬儀についても生前「こうして欲しい」とはっきりと言っていたので、できるだけ父の希望に沿う形になるよう、家族と力を合わせ娘としてできる限りのことをしました。
お陰で、満開の桜の中たくさんの人たちに見送ってもらうことができ、うれしかったです。

新しい電卓

子どもの頃、やりたいって言ったことは何でもやらせてもらえたし、
やると決めた習い事は割と長く続いた。

エレクトーン、ガールスカウト、合唱団、ミニバス、ブラスバンドが
幼稚園から中学校までにやったこと。

でも、もし子ども時代に戻ってもうひとつ何か習い事ができるとしたら、
やってみたいことは「そろばん」。
暗算とかサッとできるといろいろ便利だろうなと、大人になった今でもよく思う。
めっぽう弱い数字にももう少し強くなってただろうと、幻想を抱いてみたくもなる。

そんな私にとって電卓は必需品。
長年使っていた電卓が壊れてしまったので、新調した。
左が長年お世話になったLEXONの、右が新しく買った無印良品の。
ボタンが大きくなって押しやすくなった。

一番上についてる「GT・AC」とか「F 3 2 1 0 A」の切り替えボタンってなんだろ?
多分、一生使いこなすことはなさそうだ。