Days in my life

カテゴリー: 日々つれづれ (page 3 of 5)

高松宇野航路、最終日

高松港と岡山県の宇野港を結ぶ航路に、幕が降りました。

島国四国に住む人間としては
ついにこの航路にまで幕を降ろす日が来てしまったのか、という気持ちです。

私は徳島で生まれてすぐに、
父の仕事の都合ですぐに尾道の向島に移り住みました。
なので、幼い頃には両親から
たくさん宇高連絡船の思い出話を聞かされていました。

引っ越してすぐ私や母の面倒を見に、
祖母が初めて一人旅で乗った船であるということ。
今のように本州と四国が陸続きでないため、
赤子を連れて列車と船を乗り継いで帰省するのはとても大変だったということ。
赤子の私と大きな荷物を抱えて一人で徳島まで帰省していた母の荷物を
親切な人が手助けしてくれて高松駅まで送ってくれたこと。

サイクリング部に属していた学生時代には
自転車を乗せて渡り、岡山県玉野市の海岸でキャンプをしました。
翌朝、王子が岳で見た朝日はとても綺麗でした。

そして、操舵室に入れてもらったことも。

2008年、高松港

大人になってからの思い出は、
やはり瀬戸内国際芸術祭。

豊島からの帰りの船に積み残された時は、
豊島から一旦宇野港に渡って、
そこから高松港へと戻ってくるということを何度か繰り返しました。

「高松宇野航路があるから安心」でもありました。

とはいえ、2019年は瀬戸芸にすら行くこともなく、
高松宇野航路に乗ることすらなかったので
無責任な発言ではあるけれども、なんとも寂しいものです。

スパイスの収納方法

2019年、我が家の台所と食卓で一番の大きな変化はスパイスがやってきたこと。

春に友人に作り方を教わってすぐに基本のスパイスを揃え、
カレー以外でも日々の調理で頻繁に使うようになりました。
http://www.pecograph.com/note/?p=8619

ずっと頭を悩ましていたのが、これらのスパイスの収納。
大きな缶に入れて棚においてはいるものの、
取り出しにくいことがモヤモヤと地味にストレスでした。

なんとか良い方法はないものかとネットで調べていると
百均で売ってるマグネットがついたアルミケースに入れて
冷蔵庫に貼っておくと良いという情報を発見!

まずは早速ダイソーへ。

ダイソーで売っているのは、こちらの少し大きめのタイプ。
開け閉めもスムーズでよくできています。
これにはパウダー系のスパイスを入れることにしました。

蓋に油性ペンでスパイス名を記述。
百均のシールを貼ったり、ダイモでネームを作ったりしてもお洒落になりそうだけど、
面倒なので油性ペンでササッと済ませました。

これより小さいサイズのアルミケースが「セリア」にあるという情報を見かけたものの、
何軒かのセリアをまわってみたけれども残念ながらみつけることができませんでした。

なので、Amazonでこちらの6個セットのアルミケースを購入。
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓


正直なところ、値段の安いダイソーのものの方がしっかりしている気もするけれども、
まあそれもご愛嬌ということで、
こちらにはホール系スパイスを入れます。


冷蔵庫にペタッと貼って設置完了。
アルミのシンプルな無骨さと。スパイスの色鮮やかさがいいバランスとなって
インテリアのアクセントとしても◎

そして何より使いたい時にすぐ取り出せて、
それぞれのスパイスの在庫状態がどのくらいなのか
パッと一目でわかるのがうれしいです。

これからますますスパイスを使った料理を作ることが増えていきそう。

夕焼けが綺麗な11月

11月は夕焼けが綺麗な日が多かったな。
これは、岐阜からの帰り道に電車の中から見た夕景。
もう3週間も経っただなんて…。

整えたり、蓄えたり。

週の初めからずっと喉がいがらっぽく、
なのに仕事は立て込んでて毎夜遅くまで根を詰めて作業をしていたら、
金曜日にはついに喉がつぶれて声がまったく出なくなってしまいました。

喉以外は元気なんだけど、
電話に出られなかったり、
会って人と話すとものすごく心配されたりするなど
いろいろと生活に支障が出て困りました。

11月最初の週末は3連休。
本当は初日から出かける予定があったんだけど、
これ以上体調が悪化して仕事に影響してはいけないので、大事をとってキャンセルを。

家にいる時間ができたことで
観葉植物の手入れもできたし、
布団も干せてシーツも洗えたし、
暮らしも整い、体調もすっかりよくなり、懸命な判断でした。

以前の私だったら
こんな時でも無理してでも行っていたと思います。

遅まきながら、
“無理をしない”という選択することも
前向きな選択であるということを、ちょっとずつ学んでいっています。

整えたり、蓄えたりすることは、とても大事。

好き」のおすそわけ

美味しいパイナップルケーキをいただきました。
台湾に本店がある「李家餅家」のもの。

パイナップルケーキと言えば台湾みやげの定番。
「微熱山荘」や「土鳳梨酥」のは食べたことがあるけれど、こちらははじめて。

おすそ分けしてくださったのは、
マレーシアのことがきっかけで、ブログを通して知り合った菜穂子さん。

マレーシア料理の「ナシレマ」のことを調べていたときに
菜穂子さんが書かれた記事をみつけ、
それがとても魅力的だったので、
リンクが貼られていた菜穂子さんのブログに飛んで、
そこからインスタで繋がったのが知り合ったきっかけでした。

菜穂子さんは20年前に初めてマレーシアを訪れてから
その魅力にどっぷりハマってずっと通い続け、
そしてご縁があってイスラム教に改宗し、
マレーシア人の旦那さまとご結婚されました。
奇しくも、まもなくマレーシアに移住すると言うタイミングで
ちょうど私が大阪にいる日に彼女も大阪にいるということで、
ランチをご一緒する機会に恵まれました。

マレーシアのこと、その他の旅先のこと、仕事のこと、
そして私にとってはイスラム教徒の友達ができたのは初めてのことなので
改宗するってどんな感じなのかとか、話すことがまったく尽きなかったです。
初対面なのに、初対面のように感じない。
こういう感覚はとっても久しぶり!

そして、
マレーシアと同じように菜穂子さんが何度も訪れている台湾のお土産としていただいたのが
この「李家餅家」のパイナップルケーキ。
台湾に行ったら、いつもこれを買いにわざわざお店まで足を運ぶほどお気に入りなのだとか。

早速うちに帰って包みを開けると、ふわっとパイナップルの香りが。
バターの風味がほんのり感じるサクサクとした生地に
しっとりとした餡の素朴な味で、とても食べやすく美味しかったです。
菜穂子さん、ありがとう!

こうやって自分の「好きなモノコト」がきっかけで繋がった人と
何かを「好き」と言う気持ちを交換したり、
おすそ分けをしあったりすることって、いくつになってもワクワクします。
そして、そういったことが気持ちを豊かにし、
ひいては人生も豊かにしてくれるのだと、この頃よく思います。

菜穂子さんともまたマレーシアで再会できるといいな。
ブログを通して、これからのマレーシアでの新婚生活を垣間見れるのも楽しみです。
https://blog.goo.ne.jp/cintamalaysia

「カーネーション」と7月4日。

この春から再放送している
朝の連続テレビ小説「カーネーション」を録画して見るのが、
毎日のささやかな楽しみです。

2011年の秋に放送されていた時も毎日見ていたはずなのに、
7年前は気づかなかった新しい発見がたくさんあります。
ヒロインの尾野真千子さんや周りを支える役者の方々の演技も魅力的で、
何度見ても見飽きることがありません。

ヒロインのモデルとなった小篠綾子さんは大正2年生まれで、
100歳で天寿をまっとうした大正元年生まれの私の祖母とひとつ違い。
なので、ヒロインの生きざまを通して、
祖母の生きてきた時代を垣間見ているような気がします。

母や叔母に聞いた話によると、
戦前に輸出業を営んでいた祖母の実家はとても繁盛していたようで、
実は祖母は結構なお嬢様だったよう。
娘時代には大阪や神戸にしょっちゅう連れて行ってもらっていたそうです。

けれども戦争で実家の稼業は傾き、
戦後しばらくして夫を病で亡くし、
女でひとつで子どもを育て上げ、
それがどれほどの苦労だったか
私自身が顧みることができるようになったのも
そんなに遠い昔ではありません。

まだ私が小さかった頃、
いつもやさしかった祖母の話で、
恐ろしくてあまり聞きたくなかった話がひとだけあります。

今からちょうど73年前の7月4月に起こった徳島大空襲の話。
空から焼夷弾が火の雨のように落ちてきて、
焼け野原になった町で黒焦げになった屍体をたくさん見かけたことなど、
幼い私にはどうして怖くて、祖母の話を遮ったことも何度かありました。

空襲に遭った頃、祖母のお腹には母が宿っていました。
どんな気持ちで、焦土となった町を眺めその後の敗戦を迎えたんだろう。
そんなことも、晩年にちゃんと聞いておけばよかったと思います。

そして
哀しいことだけじゃなく、
どんなことが好きだったのか、
どんなことをして遊んでいたのか、
どうしておじいちゃんと結婚したのか、
いとこや私たち姉妹が生まれた時はどんな気持ちだったか、とか。

今となっては聞くことはできないからこそ、
「カーネーション」のヒロイン糸子を通して、
おばあちゃんの生きてきた時代を知り、
おばあちゃんはその時どんなことを考えていたのか想像することで、
時々、心の中で対話しているような気分になることがあります。
ぬくぬくとした時代に育ってきた私なんかよりも、
ずっとずっと心が強かったと思います。

ヒロインの育った岸和田の町。
この時だんじりを一緒に見ていた父も、もういません。

歳を重ねるごとに、
夏は生と死を色濃く意識する季節になってきているような気がします。

近くの公園からは阿波踊りの練習の音が聞こえてくる、平和な夜。
阿波踊りの運営自体は、なんだか穏やかではないけれどねぇ…。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32613590U8A700C1LA0000/

運動会

もう10日以上前の話。

甥っ子の小学校初めての運動会がありました。
これまでのように、甥っ子専属カメラマンとして参上。

元城下町だけれども
ドーナツ化現象で少子化が進み、
1学年ひとクラスのみで
全校生徒数130名ちょっとの小さな公立小学校の運動会は
地域の町内会やら老人会の方も大活躍。
一緒に玉入れをしたり、綱引きをしたり、アットホームな雰囲気。

そして、上級生がテキパキと種目の準備をしたり
下級生のお世話をしたりする姿が、とても頼もしかったです。

クラスの中でもチビッ子の甥っ子くんは、
お兄さんお姉さん、地域のおじいちゃんおばあちゃんに甘えるのが、さりげなく上手。

私立の幼稚園に通っていた時とはまた違った雰囲気で楽しめました。

彼の母親である妹や、父である義弟にとって故郷ではないこの町が
こうして少しずつ甥っ子にとっての故郷になっていくのだなと
改めて感じた1日でした。

三回忌を終えて

日曜日は父の三回忌でした。

父が息を引き取った時にはまだ4歳になったばかりで
その後の法要の時にずっと座っていられなかった甥っ子も小学校に上がり、
お客さんにお茶をふるまったり、愛想をふりまいたりしている姿を見て
時の流れを感じました。

実家の庭は春爛漫で、花盛り。
母は草花を育てるのがとても上手です。

これまでは父の趣味の盆栽が
ずいぶんとスペースを占領してしまっていたんだけれども
これからは、もっと自分の好きなことを好きなように
楽しんでもらえたらいいなと思っています。

ガーデニングだけじゃなく、母のこれからの人生も。

しかし、
両親とも“グリーンフィンガー”を持っているのに
哀しいくらいにちっとも受け継がなかった私…。

ベランダで枯れてしまった植物たちを片付けて、
そろそろバジルの苗でも買いに行こうかな。

2年前

Macのハードディスクがいっぱいになってきたので
デジカメで撮った写真データを少しずつ整理しています。

これはちょうど2年前の3月26日に撮ったもの。
北海道新幹線が開通したというニュースを
父の入院しているホスピスの病室で見ていました。

この頃、
4歳になったばかりの甥っ子のマイブームがプラレール。
北海道新幹線の車両にも夢中だったので
「元気になったら、みんなで乗りに行こうね」
なんて話を、父と母としていました。

楽天的に考えたい私は、
何か奇跡が起きる可能性がゼロではないことを、
この時点でもまだ信じて疑っていませんでした。

でもきっと父は自分の体の状態を
誰よりもよくわかっていたのではないかと、
今になって思います。

余命が月単位から週単位に、
そして日単位から時間単位へと刻一刻と変わっていくなか、
家族で過ごした穏やかな時間を、懐かしく思い出しました。

父は病が分かってからずっと、
家族には“いつも通りの生活をすること”を強く望んでいました。
厳しいくらいに。

2年前の3月や4月のブログを久しぶりに読み返してみて、
私も平常心を保つため必死だったことも、思い出しました。

しかし、ブログで振り返ってみてみると
看病しながら仕事もして、
よく英語の勉強も途切れず続けられたなぁ。
そしてブログ書くことも。
もうあの時の感情をあの時と同じように思い返すことはできないので、
書き留めておいてよかったなと、改めて思います。

今、年度末の締め切りで
とにかくバタバタしていて胃が痛く余裕がない毎日なんだけど、
あの頃のことを思い出すと、なんとか乗り切れそうな気もしてきました。
いや、乗り切らないといけないんだけど。

造船所のある港町

生まれて初めて “船底”を見ました。
今日は港町の造船所へ。

ちょうど船の検査をしているところを見せてもらうことができました。

亡くなった父は船の検査技師をしていました。
転勤の多い仕事で、小さな頃から家族で港のある町を転々としていました。
父の病が見つかってから、
両親と私でかつて家族で住んでいた港町を訪ねる旅に出ました。

旅先で父がいつも行きたがったのは、造船所のある場所。

母や私はまったく興味がないにもかかわらず、
おかまいなしで行き先を決める父…笑。

あまり仕事のことを家で話さない父だったけれども
父が働いていた現場の様子を
ほんの少し肌で感じることができた貴重な経験でした。