レバノンでホリエモンがカルロスゴーンと対談してるYouTubeを見ました。
なんとなく見始めたけれども、目も耳も釘付けになりました。

ホリエモンは、決して流暢な英語を話しているわけではありません。
むしろ、ところどころ単語も出てこない時もあって、たどたどしいくらい。

けれどもゴーン氏と、ものすごい深い話をしています。
日本の司法システムの矛盾とか、
ゴーン氏の逮捕劇は嫉妬にまみれた日産幹部と検察官の緊密な協力によって仕組まれたものであるとか。

ホリエモンだから聞き得ることができた、客観的で衝撃的な事実。

ホリエモンの側には、
彼以上に英語が堪能な人がいたであろうのに通訳を立てず、
自分の言葉で聞きたいことを聞き、言いたいことを伝えている姿を見て、
改めて、英語ってコミュニケーションをするための「道具」なのだと、痛感しました。

もちろん、あえて書くほどでもない当たり前すぎることなんだけど、
ついつい
文法的に間違えないように、とか、
ネイティブっぽくかっこよく話そうとか、
きれいな発音で話そうとか、
ついそんなことに捉われがちになってしまうけど
そんなことよりも道具としてガンガン使ってなんぼやなぁ、と。
この映像を見て改めて強く感じました。


また、一昨年ゴーン氏が逮捕された時に感じたことがあります。
それは、日本と欧米諸国の報道のされ方がずいぶんと違うのではないか、ということ。

日本のマスコミはゴーン氏が完全悪であることが前提としてセンセーショナルに報道されていて、欧米のマスコミはもっと事実を客観に記し意見を述べている印象を持ちました。

もちろんたくさんの情報を追い続けていたわけでもないし、
その当時の私の英語力でしっかり読み込めてはいなかったこともあると思うけれども、
報道内容のトーンの違いは感じることができました。

そして思ったことは、
日本人が書いた日本語だけの情報や、
通訳者を通して日本語に翻訳された情報だけ見ていることって、
もしかしたら、じわじわとリスクにもなりかねないのかなと。

コロナウィルスの情報にしてもしかり。

まずは英語で発信された情報に興味を持ち続けること。
読んだり、聞いたり、時にはそのことについて話したり、書いたり、
自分のできる範囲で「道具」として、使ってみること。
それが大事なのだなと。

この頃少し目標を見失いがちだった英語学習のモチベーションにもつながりました。